溺れるナイフ

映画を観て、思いついたことをそのまま並べて行くので見当違いなことがあっても許してほしい。

 


コウちゃんも夏芽もカナも変わっていってしまう中、大友は普通のひとだった。それが救いだった。わたしのなかでは、とても。


人生を振り返ってみた時、中学から高校の6年間はターニングポイントの連続だと思う。人間関係も変わる。多感な時期になり、環境が・周りが、人を変えて行く。人格が形成されていくのにかなり影響を与える時だとわたしは思う。


例えば


夏芽は大都会から田舎に行く。夏芽はいつまで経ってもあの街に染まれない。モデルをやっていたから、夏芽はどこまでもいつまでも有名人だ。付きまとう。
コウちゃんはあの街しか知らない。白くて、まるで神さんのように眩しいコウちゃんは浮雲町の名家・代々続く長谷川家の子だ。いつまでも縛られて抜け出せない。こちらもまた、付きまとう。途中道を外れて白から違う色に染まろうとするコウちゃん。染まれない。
カナもまた、あの街しか知らない。出会った頃はお下げ髪で眉もふさふさで初々しくて芋くさくて夏芽をキラキラとした目で見るカナも高校で変わる。別人のように。

 

3人が目まぐるしく変わる中、大友だけが変わらない。もちろん全く変わっていないわけではないのだけど。言葉でなんて表せばいいのだろう。ただ、大友の存在で救われたんだ。大友が居たからこの話を飲み込めたんだ。

 

大友は優しくて臆病で勇敢だ。「友達」を繰り返すのは自衛で、夏芽を傷つけたくない・でも自分のものにしたい・「友達」という立場で傷つかずに近くにいたい、そんな想いがあるんじゃないかな。きっかけはペディキュア、でもそんなのただのきっかけにすぎなくて、なんだってよかった。少しずつ顔を近づけたら整えた眉毛を夏芽が笑ってくれて、コウではなくても自分が笑わせることができた。「俺が笑わせちゃるけん」「頑張らして」一瞬のキスは芽生えた自信と誓いのキスだよ。


でも大友は夏芽の神さんにはなれなかった。


夏芽は特別視されたくなかったのだと思う。大都会からきた美少女、町の人はみなその決まりのフィルターを通して夏芽のことを見る。大友だけは「アンニュイ美少女」「おしゃれさん」と、似ているけど似ていない、少し違った目線で見つめる。夏芽を笑わせたくて、その一心で、自分の本音を深く深く鎮める。「俺ら東京さ行ぐだ」の間だけ出せた本当の自分の想い。交錯する。悲しさと、優しさと、笑わなきゃという気持ちが。
きっと大友はこれから先ずっと神さんという存在を持たない。それがいいよ。まっすぐな大友は何も縛られずに大切な人のために生きてほしい。


ただただ「楽しい」「悲しい」で終わる映画ではなかった。深くて、重い。


わたしにとって、大友だけが、感情移入できる相手だった。それを誰が演じようと。画面いっぱいの苦しみの水と、揺らぐ青。そこに現れる救いの椿の赤。沈みそうになる自分を救いあげてくれたのは、それだった。