Von(「バイバイ」、オスカー。)
約束の歌で何度も涙を拭う姿も FN&Fを噛み締めて歌う姿も 両手を顔の前で合わせて 少し下に俯いて なにか込み上げてくるものを抑えようとしてるのも 何度も腰の位置でガッツポーズするのも この2ヶ月悩んで悩んで 自分と正反対のもうひとりの人格を背負って 駆け抜けてきた 集大成だなと
— mi (@m_ool) September 28, 2014
「すごく長い期間、稽古をさせていただいて、みんなで作り上げたので自信はあります!」
劇中の時計の針の音は、最初のママとのシーンではゆっくり静かに刻んでいるけれど、最後のママとのシーンは時計の音が強く鳴り響く。それはオスカーを取り巻く環境の急激な変化や、オスカーの考え・それこそ成長、ミライのエリとの旅立ちやイマとの別れを表しているように感じた。
オスカーはおとなとこどもの丁度真ん中にいる。
男嫌いのママはオスカーを一人前の男とは認めようとしない。いつまでも自分の手の中に、自分の見える世界の中に閉じこめておこうとする。既にオトコとオンナというものを知っているオスカーはママとのキスがきらいだ。ママと寝ることもきらいだ。「寝る」という意味を知っているから。パパは、オスカーにモールス信号を教えてくれたひとだった。でも今はチェッカーもオスカーに負けてしまうし、オスカーより優先したいひと(ヤンネ)がいる。トドメの「扱いにくくなった」は悔しいよなあ、オスカーだけじゃなくてパパだって変わってしまったはずなのに。オスカーだって日々心身ともに成長している。でも、オスカーを皆見た目だけで判断してこども扱いする。アヴィラ先生は悩むオスカーに「大人になれば楽になる」というし、警察官のハルムベリもオスカーに向かって「なんだ子どもか!」と言い捨てる。
エリは「アレ」だ。見た目はこどもだ。「アレ」は血を飲んで生きているけど、吸われた方も「アレ」になるそうなのできっと「エリヤス・ヤンソン」も「200年前」に「不運なこと」に吸われてしまって、それから「アレ」になった。だから、おとなだ。エリは相手を殺すから「アレ」を増やそうとはしない。エリにとって、愛していることを示す方法は裸になって肌を寄せ合うことだ。オスカーの部屋に訪れたエリは、自ら服を脱ぎ、身を寄せる。
中庭で出会ったエリに惹かれたオスカーは、エリを守ろうとする。一人の男として。キスもする。いっしょに寝た。(もっとも一般的な意味とは違うけれど。)エリを守るためにだったら立ち向かう。怖いけれど、自分が「騎士(ナイト)」になって。オスカーにとってエリは「ガールフレンド」「彼女」「乙女」「姫」だ。エリと「ちょっとの間」いっしょにいたホーカンはエリを「神様」「天使」と表す。そこがオスカーとホーカンの大きな違い。
オスカーもエリも、見た目だけの自分ではなく中身を認めてほしかったんじゃないだろうか。お互いに同じ目線・近い立場に居るものになりたくて、そういう人を求めていたんじゃないだろうか。
オスカーは何かと「約束」に拘る。その一方でエリは「約束」が嫌いだ。俗に、約束というのはいつまでも守り続けるものである。人間であるオスカーにはいつか命が尽きるときがきて、そこで約束を守り続けなければならない期限は終了する。でも「アレ」であるエリには終わりがない。約束はひとりでは出来ない。相手がその約束を忘れてしまっても、いつか相手がいなくなってしまっても、エリはそれをずっと守り続けなければならない。
「もう行かなくちゃ、もうここにはいられない。もうこれ以上は。ごめんなさい、オスカー。明日になる前に居なくなる。そうするしかない。」「行かないで!」「行きたくないよ!でも、どうしようもないんだ。」「僕がずっと守るから。」「違う、そうじゃないの。」「、なんで?」「だめなの。オスカー約束して。光を入れて正しい世界で生きる。」
上記は大千穐楽での台詞。オスカーは約束をする。ずっと守ると。ホーカンと「ちょっとの間」しかいなかったエリだからこそ「ずっと」の長さがわかる。だから、エリはそれを受け入れようとしない。オスカーのことは愛しいけれど。
パンフレットを見るとエリの台詞「光を入れて」が「窓を開けて」になっている。どういうタイミングで変わったのかわからないけれど
ずっと閉ざされた世界だったのが、最後にひと筋の光が見える。それを放つのがオスカーなので、小瀧君の持っている光が頼り
って深作監督が仰ってくださったように小瀧くんの持つ印象やパワーやオーラや何かが光になって多くのものを照らして、もし、それで台詞を変えたのならそれはとてもすごいことだなと思う。
オスカーが最後に選んだ答えは正解だったのだろうか。「一人では生きられない」エリのために、オスカーもホーカンのように、この先幾度となく殺人を繰り返していくのだろう。人を殺めるたびに「許してくれ」と叫ぶホーカン。最期には硫酸を浴び命を絶つ。愛する人を生かせるためには罪の無い人を犠牲にしなければならない。オスカーはそれを理解した上でエリと付き合って-ずっとそばにいる-いくのだろうか。
悲しくて悲しくて仕方がない。
最後の電車の中、ゆっくり顔を上げて、微笑んでいるようにも悲しんでいるようにも、覚悟を決めたようにも見える表情は、とても苦しい。
原題は「LET THE RIGHT ONE IN」。日本語訳は「正しき者を招き入れよ」。これはヴァンパイアが【招かれないと部屋の中に入れない】という特徴からつけられたもの。では、正しき者とは一体誰なのだろうか。正しいとは何なのだろうか。自分にとって正しいものは他者にとっても正しいと必ずしも言えるのだろうか。
他者が自分と異なるものを持っていたとき、全てを受け入れられるのだろうか。愛だけで満たされないもの全てが補完されるのだろうか。
すべてが終わった今でも答えは見えないし、疑問ばかり生まれてくる。正解もない。もう会えないのに毎日毎日MORSEのことを、オスカーのことを考える。
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東京千穐楽でも、大阪の大千穐楽でも、最後の小瀧くんの言葉はすごく小瀧くんらしさが溢れていた。前から、常々思っていたけれど、締めの挨拶とか畏まった挨拶をするの、苦手だと思う。最近だとなにわ侍とか台風nのショータイムの挨拶とか、団五郎も全部そう。決まった言葉を、同じように同じペースで、話す。相変わらずで、それがまた、「すき」に繋がって泣いた。
台風nのときとは違う、清々しい笑顔でステージからハケていった。
わたしが思うよりもずっとずっと、小瀧くんは前を向いて歩いていて、頼もしくて、キラキラしていて、かっこいい。ひとりで大丈夫かな、背負うには重すぎるのではないかななんて心配なんかいらなかった。すごく大きくなっていた。凛々しくて強くて、今までも、これからも、だいすきなひと。
だから、わたし、いまそんなに苦しくないの。
台風nのときは苦しくて千穐楽後胸にぽっかり穴が空いてしまったようだったし、最後の姿を思い出しては泣いていた。でも、今回は笑顔だったから、それが嬉しくて、胸がいっぱい。
それから、共演した素敵なキャストさんからの
小瀧くんがね、ずっとしっかりしてて、そしてずっとキラキラしてて、なんていうか僕の中で、ハッピーの泉みたいな存在でした。いろんなものが湧き出てるよ、小瀧座長!出会えてよかったね!
(ヨンニ役:富岡晃一郎さん)
コタッキー!
おっさんはびっくらこいた!
舞台上であんなに感じれる役者さんは始めて見ました。
アイドルの枠を超えております!
何から何まで君のおかげです(オスカーのパパ・お菓子屋のおじさん・車掌役:久松信美さん)
小瀧座長は、180センチ近い大きな役者さんですが
細かな芝居の積み重ねから
見事に繊細な少年になりきり、世界観を作っておられた(ホーカン役:田中健さん)
言葉から、わたしが知っていて、わたしがだいすきで、わたしがいつもこういうひとであって欲しいなと思い描いている小瀧望は、間違いじゃないとわかったから。
小瀧くんが演じるオスカーはもういない。いつか他のひとがオスカーを演じることがあっても、小瀧くんが演じたオスカーにはもう会えない。
オスカーが着ているジャケットとパンツのポケットにはたくさんのモノが詰め込まれている。そのひとつひとつにオスカーらしさがあって、オスカーという人物を形成する要素がある。弱さを隠すためのナイフ、エリとは違う・年相応にも思える全ての持ち金の3枚の銀貨、だいすきなお菓子、いじめられるとわかっていても自分がそこに居るとわからせるくれる石、エリと自分を繋いでくれたルービックキューブ。
素直で弱い。でも温かさを持ったオスカー。自分のことを思って泣くより、ひとのことを思って泣くほうがずっと多い。 オスカーもエリのことを思って泣いてた。小瀧くんもそうだ。 ふたりは似てないけど、そういうところがよく似てる。
舞台の真ん中に立ち、スタンディングオベーションと拍手の音で包まれた会場を見渡す小瀧座長の表情。素晴らしいキャスト陣とスタッフさん。
長くて短い一か月が終わった。発表から半年。小瀧くんにとっては稽古と本番の二か月。これから何年経っても、寒さを感じるようになるたびに「MORSE-モールス-」を思い出すだろう。いつか、今すぐにじゃなくていい、後日談としてでいいから、いろんな話を聞かせてね。
この作品に出逢えてよかった。
おつかれさまでした。そして、いつもありがとう。これからも、だいすきです。
「 バイバイ」、オスカー。